日本語にすると「模倣の達人」というタイトルの、シックスティーンによる2024年新譜。タイトルの通り、模倣(パロディ)に注目した一作。このタイトルに関連した雑談を後ろに。
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ラッスス(ラッソ)という「パロディ・ミサ」の名手の作品を中心に、ジョスカンやカスラーナなども取り上げ、最後にはチルコットによるラッススの模倣作品で締めるという一枚。
そもそも多様な作品に精通していないと、何がどう模倣になっているのかよく分からないのだが、このアルバム内に「エルサレムよ、主をほめたたえよ(Lauda Jerusalem Dominum)」という題の曲が、聖歌、ラッスス版、チルコット版の3種類収められているので、これらが模倣関係にあるのかなと(聞いても確証が得られなかった)。
音楽史的な部分では間違いかもしれないが、宗教音楽が大衆化していく過程で、遊び心のある「パロディ」という方向に進んだのならば、聴衆のことを考えた人間的な営みだなぁと思うし、実際、このアルバムの収録曲は「面白い」曲が多いなというのが一番の印象だった。
シックスティーンのさすがの演奏で、ごちゃっとしやすい作品も美しくまとまっている。良い一枚なのだと思うが、このアルバムを楽しみきれていないのは、聞き手としての私の未熟さが原因だろう。
Masters of Imitation
The Sixteen, Harry Christophers
2024 / Coro (COR16203)
Links: Presto, HMV, booklet(pdf)
★★★☆☆
雑談
音楽のような創作物は「オリジナリティ」が求められるとはいえ、むしろ模倣やパロディを通じてオリジナリティが生まれる場合もあると個人的には思っている。単純に模倣系の作品が好きというのはあって。
ブルックナーの交響曲第8番をほぼそのまま引用した「巨人の肩にのって」とか、シュトラウスのアルプス交響曲などを効果的に引用した長生淳編曲の「サウンド・オブ・ミュージック」とか、自分も演奏経験があるが「パニックキッチン協奏曲」(阿部勇一)というなかなかのアイデア曲とか、クラシック作品を引用した吹奏楽曲というのも意外と少なくない。
ポップミュージックにも「サンプリング」という類似カルチャーがあって、パッと思いつくところで言えば、小沢健二「ぼくらが旅に出る理由」のイントロにはポール・サイモンの「You Can Call Me AI」のイントロが引用されてるし、最近は米津玄師の「KICK BACK」がモー娘。を引用していたなんて話もある。
ときどき、サンプリングや模倣のような行為を一緒くたに「パクり」(=許容されない模倣)と呼ぶ人がいるが、Danny Boy と You Raise Me Up は、或いは「蛍の光」と「別れのワルツ」は「パクり」だろうか。カノン進行を使ったら「パクり」だろうか。
また、こうした行為を「先人への敬意がない」と言う人もよくいるが、むしろ先人の創作物の価値を認めている点では「敬意のある」行為ですらあるかもしれない。
パクりとそうでないもの(許容されない模倣と許容される模倣)があると考えるとしても、その境界線は実際かなり不明確で、ケースバイケースとしか言いようがない。言うまでもないが「原曲者へのリスペクト云々」のような精神論は基準とはなり得ない。
著作権のような法的観点からはもしかすると何らかの基準を導き出せるかもしれないが、あくまでも「模倣される側」の話。よって、一般的な基準は「聞き手に許容するだけの理由がどれだけあるか」の問題だと思う1。
「この世のすべてはパロディなのか?」(とんねるず「情けねえ」)と言われて、まぁ確かにこの世は模倣とパロディで出来ているだろうなと答えたくなる人間なので、模倣やパロディを称揚する方向に偏ってるのは否めないのだが、みんな目くじら立てすぎでは?と思っているところはある。
- 結局、パクりであるかどうかというのはパーソナルかつケースバイケースな問題になり、その集合体の「最大公約数」的にしか定義づけられないのではないかと個人的には考えている。客観的な基準を考えようとすればするほど難しい。では多数決で良いのかと言われれば、これには少数派の意見が反映されないという問題もある。↩